牛ヶ首島「日蓮上人涅槃像」彫刻計画 日記
2005年1月7日
山陽新聞社事業部大橋氏より夜間電話がかかる。
「山陽新聞社の事業として、「日蓮上人涅槃像」の彫刻再開のアイデアがあるが、どの程度の予算がかかるか?また、期間はどの程度かかるか?あくまでまだ事業部内のアイデアに過ぎない。」
1999年夏、カヌーで渡航して見てきた像は、巨大。しかしすでに風化が激しく、大きな亀裂にコンクリートの補修が施してあった。頭部のみ完成しているが、胴体との繋がりがとれず、やり直すとあれば2メートルほど後退して新たな彫り直しが必要と判断した事を思い出す。
少し興奮する。
1月8日
陶芸家の十河氏を訪ね、田井港から沿岸の牛ヶ首島を遠望。
「日蓮上人涅槃像」の位置を確認。
玉野の大前回漕店の大前氏を知る。
1月11日
ベネッセアートサイトの仕事で直島へ渡る。
乗船前に大前氏と会う。なかなか興味深い人物と見受ける。島での活動でもあり、回漕店を営む大前氏の存在は必ず大きくなっていくだろうと予想される。
1月13日
直島の釣り名人立石氏より、カナエ建設の水本社長を紹介していただく。
直島回りの港湾工事をしている会社。牛ヶ首島へ機材を搬入したり、道を開いてもらったりの仕事を依頼しなくてはいけない。さっそく見積もりをお願いする。
丁度、牛ヶ首島の港湾工事を請け負っているとのこと。
1月15日
カナエ建設の水本社長から連絡が入る。
桟橋から現場に至る道を開くにも、地権者が複雑でとても大変ということ。このあたりは、直島町長と話をして、解決を図る必要がある。航空写真を取り寄せることになる。
1月20日
ao工房ホームページ内にプロジェクトのページを開く。山陽新聞社事業部との話はいっさい進まず。僕としてはもっと大きなプロジェクトに持っていきたいと考えている。とても企業一社では賄いきれないと思う。
早くも反響が帰ってくる。
1月22日
新たなアイデアが浮かぶ。
桜の植樹は「樹木葬」として寄付を集めたらどうか?
墓地不足の昨今。高価である墓地建設より自由葬を選択する人が増えている。
一株10万円で1万人集まれば10億円。かなり、いろいろと取り組めるのではないか。
それでも、ビルの建設費より大分安い。
2月3日
牛ヶ首島探訪。
大前回漕店の大前裕氏と牛ヶ首島に渡ってきた。大前氏の自前の船。朝9時宇野港出発。牛ヶ首島は近い。
桟橋にて、唯一の生活者浜口善次郎さんと出会う。82才と聞いているがものすごく若い。
海岸沿いの堤防が崩壊している。昨年の台風の被害だろう。
西尾氏の別荘跡を抜け、浜口氏宅の脇を通り涅槃像に向かう。美しい道。幾本かの桜も植わっている。西の浜からの道と合流する地点。左手には民宿。右手には「最上位稲荷神社」そして「天満宮」が並ぶ。天満宮には御輿が安置されている。かつてはこの小さな島にも御輿が繰り出されていたのだろう。しばしそこで時間を過ごし、神社脇の道を北に上る。東に方向を変えながら登りそして下り、少し登り返したところで海が見える広い石の上に出る。美しい空間。かつてお堂があったところだろうか?新しい松が生えている。黒松は直島町の町木だが、本当に自生力が強く、アメリカではパイオニアツリーと言われている。この辺りはかつての造仏作業中に火災を起こして燃えたと聞いているが、立派に蘇生している。黒松にシダの下草。典型的な瀬戸内の植生だ。そこから石を刻んだ入り口に導かれ件の「日蓮上人涅槃像」の頭の上にでる。おもしろいのは頬の上、鼻と耳の間に1.2メートルほどの縮小涅槃が彫ってある。どういう意図なのかよく分からないが・・。
頭の前面に出る前に、そのまま尾根を北に進むと、「南無妙法蓮華経」と彫られた碑が二つ。そして、2メートルほどの涅槃像が横たわる。ここには登りを掲げるための柱が立ち、かつてはここをまいる人も多かったそうだ。涅槃像が彫られた大石の周りを回る道が藪に閉ざされていたが、無理矢理抜けると西側の低いところに祠が彫られ、60センチほどの涅槃像が安置されているのを見つけた。この涅槃像の石は笠岡周りでとれる白御影と見受けられた。足下はきちんと石が積まれている。おそらく松下氏の仕事だろう。
大涅槃の所に帰る前に、新たな石像を見つけた。「小野日祥上人行跡」と書かれた碑と釈迦の座像。この像は転法輪印を結んでいる様に見える。高さ60センチ、巾22センチほどの小さな表現のなかに飛天が飛んでいたりして、日本の造作には見えない。おそらく東南アジアからの持ち帰り品か?インド(サーンチー)に似た作例がある。
途中から海側(西)方向にかすかな道のあとを見つけ、下ってみることにする。幾段かの石段があり、明らかにかつては道であった形跡。現在はシダに被われているが強引に下ってみる。かき分けかき分けやっとの思いで下るとシダがとぎれたあたりに井戸を発見。ここから清水を汲み上げたであるろうパイプも見て取れる。そのまま藪を突っ切ると海岸に出た。目の前は田井港。
新たなものを発見した。自然の石の表出とはちがうガラ石が転がっている。山側に目を転じると明らかに切削くずを捨てたと思われる表土が現れている。ここまで山を削って出た石を運んで廃棄したと思われる。しかしどうやって?これはおそらく大正期の仕事。人力で降ろしたのであろう。今下ってきた獣道とは違った道があったのだろうと推測される。
もう一度現場まで登り直し、今度は顔の正面から涅槃像を見る。顎から天頂まで12メートル、顔の巾は5.7メートル。確かに大きい。しかし、この頭部を彫るだけならしれた時間だろう(僕は3年で彫れるとふんだ)。しかし実際に彫刻にかかるまでの苦労が偲ばれる。掘り出されているガラの量は半端ではない。
多くの石は直方体にきちんと製材されているように見える。せり矢(石を割る為の鉄のくさびのような物)で割ってある。きっと何か意図があったはず。その石を積み上げるか延べるかして何かを作ろうとしていたのだろう。
この現場には古いコンプレッサー小屋がある。もちろん朽ち果ててはいるが、大きなコンプレッサーを据え、配管までしてある。おそらく総重量1トンはあるであろうこの設備をどのようにして運び上げたのであろうか。探索した道は全て獣道。その上起伏も多い。とても重量物を搬入できたとは思えない。どこかに今は消滅した広い道があるはずだ。(帰宅後のインターネット検索で昭和55年の航空写真を発見。谷に道らしき影を見出した。)
現場は思いのほか狭い。彫刻の規模に比べると前庭にあたる部分が不安定きわまりない。きちんとした状況を作らず進めるところが今時の工事と違い、如何にも個人事業の延長と言った感。これは僕の得意分野でもある。まずは作業ありき。ハード主体の体制的なやり方とは違う。意志があれば進められる。
今回の探索で多くのことが解った。まず必要なのは機材を搬入するための道を開くこと。それも最短距離で。頭部の状態は悪く、この続きを彫ることは難しいと思われるが、その胴体にあたる部分の石はしっかりしている。ほぼ35メートル。ここは充分彫刻可能。その場合、現在彫られている頭部はどうするか?先人の行為を無為にはできない。
それから、キャンバスを作ることが先決で、岩の状態を把握してからどのように進めていくか判断したい。そのためにも海岸線から道を開くことが必要。何とかパワーショベルを入れて、現場の石を整理しなければいけない。新しいコンプレッサーも必要。
9時過ぎから上陸した牛ヶ首島。気がつくと午後1時になっていた。この自然に溢れ、美しい景色に囲まれた瀬戸内の島で、作品づくりに邁進できたらどんなに幸せだろう。立ちはだかる壁は高い。少しずつ先に進むしかない。
夜、インターネットで牛ヶ首島の航空写真を見つけた。昭和55年撮影とか。ちょうど作業を行っていた時期と重なるのではないだろうか。
http://w3land.mlit.go.jp/Air/photo100/80/ccg-80-3/c8b/ccg-80-3_c8b_8.jpg
2月5日
このところ、直島通いが続いている。(家プロジェクト「きんざ:内藤礼作」の修復のため)
これは、この計画のためにもグッドタイミング。
今朝、大前回漕店を訪ね、直島諸島の海図を頂いた。海の深さが明確に解り、船の進入路を考える上でとても役に立った。機材搬入のためにどこかに桟橋を築かなくてはいけない。
牛ヶ首の地図をベネッセの笠原氏に渡し、現場付近の地権者を調べてもらうように依頼した。直島アートサイトの面々はとにかく直島での実績が大きく、各方面に人脈を持っている。信用も勝ち取っている。
直島アートサイトは瀬戸内海をアートで結ぶ計画を持っているようで、最近離島の調査に余念がない。僕のプロジェクトともリンクするので、これも非常にタイミングがいいといえる。あちこちでいろいろなことがあって、全部がおもしろく関係していけば楽しくなる。
2月10日
7日に大前氏からメールが入る。松下与一さんに関する古い記事があるとのこと。コピーをしていただいた。昭和41年9月11日付、11面の大きな記事だ。この年67才の松下翁が病気から1年ぶりに作業復帰したことを伝えている。それによると石工の松下さんが大正期の仕事を引き継いで彫刻作業を始めたのは、昭和32年5月3日とある。この記事の時点では10年近く一人で彫り続けていると記述している。別の記事では57年まで彫っていたとあるので、正確な記事だとすると83才まで作業をしていたことになる。先日牛ヶ首島でお会いした浜口善次郎さんのお話では、後年は3〜4人の手伝いが入っていたと言うことだったが、この高齢なら頷ける。
それにしても、大正期の作業が不明。この記事によると最初から松下さんが彫り始めたように書いてある。大正期には一体何をしたのか?先日の牛ヶ首島踏査で、おそらく当時の切削ガラを見つけたので、かなり大がかりな作業が行われたことは確かだ。花火の打ち上げ方もかなり派手だったようだし。たちまち資金が切れたのだろうか?準備の方にお金がかかり実作業まで至らなかったことも考えられる。14人のそうそうたる発起人の思惑が複雑に絡み合っていたことも考えられるし、その後に勃発する第一次大戦や関東大震災などの影響もあったのであろう。
出だしは華やかな必要はないのだと思う。ひそかに始まる。そして彫り続けることでその行為に力を付ける。派手なものに人は一瞬引きつけられるが、すぐに飽きてしまうことは今までの経験でも明白。本当の目的をしっかり定めて揺らがないことが大事だろう。
今回の大きな命題は「人が生きる:生きてきた・生きていく:事をしっかり見つめ、顕彰し尊重する。」
ちなみに上記の記事は大前氏のお父上がスクラップして保存されていたそうだ。松下さんと大前父さんの像の前で並んだ写真が添えられていた。
2月11日
今日、海図を見ていて気がついた。この周辺の島々で、真北に向かって岩盤が露出しているところは牛ヶ首島しかないのだ。西尾氏は牛ヶ首にこれを知って入植したわけではない。偶然この岩を発見して「涅槃像建立」を思い立ったのだ。涅槃像は北枕が原則。それも西向きに。これはそこに像が存在するようにとの「風」が吹いたに違いない。何かが起こり始めるときはそういうものだ。今はまだ風の吹きはじめを感じるのは僕一人に過ぎないかも知れない。吹き抜けるスペースを作ることがまずはじめにするべき事。
2月15日
久しぶりの雨.
この数日に少し進展。先週の土曜日、大前氏と、カナエ建設の水本氏と会う(長谷井さんも同行)。大前氏は、県立図書館のマイクロフィルムから大正2年の「山陽新報」の記事を探って下さった。おそらく牛ヶ首涅槃に関する最初の記事。発起人に大将クラスの軍人が多く、軍事色が濃厚にうかがえるが、第一次世界大戦を控えた時代の風か?しかし、物の勢いは伺える。あのころの日本は良くも悪くも熱かったのだ。
水本氏は詳細に島のことを調べてくださっていた。島の南側は地権者問題が難しく、あまり触らない方がいいだろうというお話。桟橋を築くには、近くで養殖をしている業者があるので、かなり神経を使うだろうと思う。補償問題などに繋がるとかなり面倒になる。屏風島に住む方々のようだが、まず計画をお話に行かなければ。地元の賛同が絶対条件となるだろう。
だいたいの見積もりが出そう。桟橋と現場への搬入路を築くのに
1億円。機材の購入に2千5百万円。実施作業に3千5百万円。大雑把にこの程度は必要なようだ。う〜ん、すごい。漁業権を侵したりするともっとかかるし、肝心の土地をどうするのか・・・。訳の分からない金額になってきそう。
20代の頃、もぐりでやっていた中学校講師の頃の教え子であった春名氏が、CGムービーを作ってくれることになった。僕の頭の中はすでに映像ができている。これからのアプローチに大きな力になってくれるはず。良いものを作りたい。
2月27日
早くも2月が去ろうとしている。今年の冬は寒暖の差が激しく身体が対応しない。
昨日、カナエ建設の水本社長が牛ヶ首島に測量に行く船に便乗させていただいた。同行はカナエ建設の皆さんとCG職人の春名君。春名君にはCGムービーを作るためのイメージ固めと撮影に来てもらった。それにしても水本社長はいい方で、色々お気遣いを頂く。前回に回れなかった道筋を確認することと、船で島を1周するビデオを撮影することが目的。少なからず新しいことが確認された。詳しくは、また、まとめたいと思う。
2月28日
ベネッセアートサイト直島の面々と、直島諸島巡りをして来た。水主は地元の海で育ったベネッセハウスの水野さん。6人乗り込んで真冬の海に乗り出した。まずは大槌(おおづち)島。直島宮浦港から西南へ向かう。ここだけは高松市に所属。遠目には綺麗なおむすびのような島。ほとんど砂浜もなく上陸できる地点は少ない。砂浜の幅は狭いうえ、海への落ち込みは深い。釣りには良さそうだが、通常は流れが早くなかなか上陸できないそうだ。浜に打ち上げられている物の中では、安山岩系もしくは玄武岩の薄い石が特徴的。この島自体は花崗岩なので、どこから流れてきた物か。水面をジャンプさせる小石投げには打ってつけの石。流木の漂着は少ない。次は直島の西隣、荒神(こうじん)島へ。北の岬の上に石棺がある。周りは基壇を組んでいた様子。石棺は上蓋を失い松葉をためて曝されているが、形は綺麗に残っている。非常に小さな物で、現在では小学校中学年程度の身長用。北隣の葛(かつら)島へ。南の浜に灯台があり、その隣にかつては豚小屋だった廃墟がある。どうしてこんなところで養豚をしていたのか?東の海岸には大正期の遺構「サラシ粉工場跡」がある。そのまま屏風(びょうぶ)島へ。ここは有人島。12世帯ほどが暮らす。子供も6〜7人いるそうだ。生業はのりやハマチの養殖。島の世話役、浜本鐵雄氏が向かえてくれる。島を案内していただく。港から民家の間を抜け畑のわきの道から神社へ。金比羅さんだ。こじんまりした住空間だが、とても綺麗にしてあり気持ちがいい。井戸があちこちに見受けられる。現在は玉野市からの給水を得ているが、とにかく水の確保が大変だったことが伺われる。ゆっくり歩いてほんの15分ほどで1周。人の生活というのは空間の気を変えるものだ。やはり何か安心感を感じる。様々な話をお聞かせ頂き、離島。喜兵衛島は堤防によって続いている。その中はかつては養魚場。喜兵衛島には有名な国史跡の製塩遺跡があるが、上陸できず。牛ヶ首島へ。勝手知ったる涅槃像へ案内する。この島は南側の廃墟群と北にある涅槃を中心にした空間と、趣ががらっと違う。というか、涅槃像の周辺はどの島にもない独特な空気が形成されている。点在する仏教遺構(といっても古いものではないが)が、日蓮宗徒を中心にした人々の、何とも言えない執念を感じさせるのだ。そこには聖地を求める人々の意志が伺える。同行の諸氏も今までとは全く違った顔つきをしている。一種の感動がそこにはある。ちゅっと長逗留して、再び海へ。京の上臈(きょうのじょうろう)島、局(つぼね)島、家島、と海上から確認。あちこちに石切場の跡があることを驚く。朽ち果てた桟橋が波に遊ぶ。いつ頃掘り出されどこに向かって出荷されたのか。向(むかえ)島へ上陸。直島本島の本村桟橋の前の島。いつも目にしていてとてもなじみ深いが初めての上陸。有人島なれど、今までは人影を観たことがない。現在は9世帯22人が暮らす。ほとんどは直島に働きに来ているようだ。小さな集落はとても落ち着きいい感じに佇んでいる。畑に出ていた壮年の女性と挨拶。最後に柏(かしわ)島を横目に帰島。波が穏やかで少々寒かったが快適な小旅行であった。今回の諸島巡りで感じた一番のこと。人の行為の痕跡はかなり醜いものだ。浜の漂着物や何かの事業の跡。しかし、千年を越した遺構は美しくあった。そして涅槃像。どういう意志に導かれたものが美しくあり続けることができるのか。または年月が醜を美に変えるのか。美しい行為を残したいものだ。